僕のなかの「全生園物語」(3)


僕のなかの「全生園物語」
亀井義展

「元職員が語る多磨盲人会」イベント用草稿

 今日の機会をもらい、「自分に何が話せるのだろう」と考えてみました。あるとすれば、それは全生園・盲人会で出逢えた人たちから受け取ったもの、もらった心なのだろうと思いました。
 松本馨さん(*1)と一緒に納骨堂に行ったとき、松本さんは、

「自分たちがいなくなった後にも、のちの人たち、若い人たちが納骨堂を訪ね、この地に生き抜いた人たちのことを、この国の過ちについて知り、考えてほしい……」

 と、語りました。その思いを込めた「納骨堂建立の碑」には、「我が国の差別と偏見のルーツはこの所にある」と記されています。

*松本馨(まつもと・かおる)氏。多磨全生園で寮父を務め、この頃薫陶を受けた子どものうちに谺雄二氏、山下道輔氏などがいた。失明後も活発に活動を続け、多磨全生園自治会再建、『全患協運動史)』『倶会一処』などの編集指導など業績は多岐にわたる。1974年から1987年までの13年間、全生園自治会長職を務めた。2005年没。

 不自由舎センターで親しくしてもらったチヨさんは、

「この頃ね、私は何のために生まれてきたんだろう……って思うのよ。50年もここに閉じ込められ、家族に迷惑をかけてね……」

 と、ぽつりぽつり話してくれました。
 全生園に来て、まだ間もない頃、手作りのうまーいカレーライスを食べさせてくれた邦子さんとは、その後亡くなるまで家族のように付き合ってもらい、一緒にごはんを食べ、旅行にも行って沢山話をしました。
 若い頃から仲の良かった療友たちとの日々を懐かしみながら、

「私たちにも青春はあったのョ……」と、話してくれました。

 無くしたもの、奪われたものは多くても、命を輝かせて生きた人たちがいた。理不尽な仕打ちや苦難のなかで亡くなった方たちもいた。

 松本馨さん、佐川修さん(*2)、大谷藤郎さん(*3)だけでなく、療養所や社会のなかで無名のままに生き、亡くなった方たち、大好きだったじいちゃん、ばあちゃんから受け取ったもの、もらった心を、僕は繋いでいかなければならないと思う。それはハンセン病資料館・学芸員の皆さんも同じだろうし、縁あって療養所や入園者の方たちと繫がった人たち、それぞれが感じていることなのだろうと思います。

*2 佐川修(さがわ・おさむ)氏。1928年韓国全羅南道生まれ(園の公式記録では1931年)。韓国名・金相権〈キム・サングォン〉。1964年に全患協の初代渉外部長に就任、全患協ニュースを担当する情報宣伝部長などを歴任。2006年より多磨全生園自治会長。『全患協運動史)』『倶会一処』の執筆(いずれも光岡良二、氷上恵介、盾木弘、大竹章、各氏との共著)も手がけた。2018年没。

*3 大谷藤郎(おおたに・ふじお)氏。1924年滋賀県生まれ。太平洋戦争下、京都大学・小笠原登助教授のもとでボランティアとしてハンセン病患者とかかわる。1959年に厚生省入省、医務局長などを経て1983年退官。以後、財団法人藤楓協会理事長となり、同財団の40周年記念事業として高松宮記念ハンセン病資料館設立に尽力した。ハンセン病資料館、初代館長。2010年、86歳没。

 ハンセン病資料館の前館長であり、らい予防法廃止・国家賠償訴訟にも尽力された大谷藤郎さんのことばは、今も心に刻まれています。

「すべての人間の尊厳」以外の何物をもおそれないでモノを申せるメディアであることが、資料館便りの抱負です。
 どうか、できるだけ多くの人々でお育て下さい。

 このことばは、大谷さんが「資料館便り」に書いたものですが、それだけではないと感じます。ハンセン病回復者の皆さんの思い、これからの資料館、そして療養所と入園者の方々に繫がる私たち全員に対する願いであり、強烈なメッセージでもあるのです。

 今日は悪天候の中を本当にありがとうございました。
 資料館の向こうには納骨堂があり、その隣には長い年月放置され、ようやく慰霊された胎児たちの「尊厳回復の碑」があります。
 お時間があれば、足を運んでいただき、この地で生き抜いた方たちの気配と魂を、少しでも感じていただければ、うれしく思います。

亀井義展(かめい・よしひろ)
学生時代にフレンズ国際労働キャンプ(FIWC)主催の韓国ハンセン病快復者定着村・労働キャンプ参加。その後仙台の本屋で『倶会一処 患者が綴る全生園の70年』を手にし、当時の多磨全生園入園者自治会会長・松本馨(まつもと・かおる)氏に手紙を書く。それが縁となり1981年秋より多磨全生園で盲人会、入園者の生活介護の仕事に従事。1998年に退職後、精神保健の作業所、グループホームなどで働く。2017年、友人の紹介で救世軍自省館(清瀬市)で働くことになり、およそ20年ぶりに全生園に通うようになった。